書籍に対する偏愛についてよりトラックバックを珍しく頂きましたが、面白いので1つだけ書きます。とはいえ、完全に歴史の問題としての話です。
さて、以下の話を前提にしましょう。
人間が感じる価値は希少性によっても決まるものであり、現代日本では書籍の価値はたいしたものでもないのだ。むしろ江戸時代からかも。
このような価値観の是非は問いません。
しかし、日本の印刷史を見ると、どうも以下のような流れがあるようです。
- 手で書き写す非効率
- 古活字が使われるようになり、活字を並べて本を作る効率化が図られる
- 古活字が衰退し、ページ全体を掘る版画による印刷が主流になる
- 幕末以後、西洋から活字が入って来る
つまり、古活字が衰退し、もともとあったやり方を西洋から教えられる状況もあったようです。なぜ、効率の悪化をあえて選んでまで、古活字が衰退たのか。もちろん、いろいろな理由があって、1つには絞れないのでしょう。
しかし、少なくとも「人が愚かであるほど、政府にとっては御しやすい」という発想は、あえて安価な量産技術を放棄する価値があることを意味します。
プラスチックの量産品より、あえて手作りの品を少数作る方が価値があるという思想と似たようなもの?
ちなみに、「特権階級が妬ましい」という思想で「誰にも特権を分け与えろ」と要求はするものの、いざ達成すると「誰もが権利を持っていては自分も尊敬されなくなる」という矛盾を抱える人たちのいるようで。彼らが、それに対する処方箋として、「特権化」「差別化」というツールを欲しがっても何ら不思議ではないことになります。
もう1つ余談を言えば §
江戸時代は規制の多い時代というのはある意味で錯覚であり、どんどん民衆が規制を抜けたり無視したりして、勝手にやっていく時代ですね。海賊版も横行したようで、印刷物も山のように作られたようです。そこで、そういう「知の安売り」に対処するために独自の学説を作って差別化したり、「みんな知らない西洋の知を知っている偉いボク」を演出するために西洋を利用するようなところがあったのかも?